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Something Poetical Private

私的で詩的な映画の感想を書いています。

虐殺器官

アニメ映画 アニメ

『虐殺器官』を観に行った。

虐殺器官〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)

虐殺器官〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)

このブログにどういう人がたどり着くのかよくわかっていないが、僕なりにいつもどおりマイペースにやろうと思う。

Private な事情により僕はしばらくこのブログを更新しなかった。理由は単に映画をみていなかったからだ。Amazon Prime Video で見ることさえもなかった。なぜなのかはよくわからない。しばらく生活に物語が必要なかったからかもしれない。

およそ3ヶ月ぶりに映画をみるにあたり、感想を書くにも物語を消化するにも復帰戦として選ぶのに最適なやつがたまたま公開されたのでみに行った、それだけと言えばそれだけだ。

虐殺器官、もうこの作品を語る必要もないだろうと思うが、お時間の余っている方はこの記事に付き合ってくだされ。

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この世界の片隅に

アニメ映画 アニメ

うん, この世界の片隅にを見てきたんですよ.

konosekai.jp

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「奇蹟がくれた数式」をより楽しめるかもしれない無限の話

洋画 解説

はい, 見てきました, 『奇蹟がくれた数式』. 一週間くらい映画見てなかったんで一週間くらい間が空きましたね.

ひょっとして僕のことをよく知らない人いるかもしれないので書いておきますが, 学部は数学科を卒業し, 実は数学科の大学院生で現在休学中という微妙な身分です. 最近「淵に立つ」の記事がありがたいことに多数シェアされたみたいで, 新規読者もいるっぽいので一応書いておきました.

今回は真面目に映画を見に行くというよりは, まあ数学者の映画らしいし見とくかくらいの感覚で行きました. 普通に楽しかったですし, 数学(者)を題材にした物語がつくられるのは非常にありがたいことなので, 多くの人にぜひぜひ劇場へ足を運んでほしいなと, 関係者でもないのに思っております.

この記事では感想よりも, 本編に関係する背景として「無限を正確に取り扱うことの難しさ」について簡単に書こうかなと思います.

ちなみに以下に書くことの大部分は僕が高校3年生のときに数学の授業で教わったことですので, 身構えずに読んでくださいな.({\sin}{\cos} も出てきませんよ!)

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「永い言い訳」をみて

邦画

最初は面白くないなって思ったんだけど、ひょっとしてそれが狙いだったんじゃないかななんて思ったりして。

今回の記事は考察メインです。あまりストーリーにも演出にも触れません。だからネタバレもしてないですが、たぶん未見の人は読まないほうが良いとは思います。

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ダゲレオタイプの女の感想: 幸せになりたい。

洋画 フランス映画

ダゲレオタイプの女を見た。監督は黒沢清だがフランス映画である。

www.bitters.co.jp

愛が幻影を見せ、

愛が悲劇を呼ぶ

僕は黒沢清の映画は「クリーピー 偽りの隣人」しか見ていない。これは面白い映画だった。「淵に立つ」と似ているが主題は全く違う映画で、僕はかなり楽しんだ。過去に書いたので、過去記事を貼っておくだけにしておく。

hikaru515.hatenablog.com

さて、この「ダゲレオタイプの女」、どことなく不思議な香りのする映画でとても見応えがある。まずダゲレオタイプという170年前からの伝統的な写真、パリから離れたフランスの郊外が舞台で、フランス語を喋っていることと昼間からワインを飲んでいること以外にはあまりフランスを感じない。古風な広い屋敷に温室がある。父は気難しい写真家で娘をモデルにしているときたらそれだけで怪しさ満点。

まーたマニアックな映画を見てひとりで盛り上がってと思われるかもですが、お前若いんだし「何者」とか見とけよとか思いますが*1、今回はさらっと書きます。

今回はネタバレなしです!

*1:ちなみに全く見る気はありません。

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「淵に立つ」によせて。

邦画

最初に言い訳を書きます。この記事は本来別のブログで公開する予定の記事でした。単にこのブログに記事が少ないという個人的な事情とか、言い訳の部分を除き8,000字弱ものボリュームになったこととか、監督のトークショーに行ってしまったら「SNSなどでの口コミがかなり興行に影響するので宣伝お願いします」と頼まれてしまったこととかが影響して、先日「野暮だから何も書かない」と書きましたがこの場で公開することに決めました。

hikaru515.hatenadiary.jp

見る予定という方はこの記事よりも上の過去記事をご覧ください。この記事はかなり核心に近いことを書いているので、いわゆるネタバレといっても過言ではないと思います。

では、記事本文へどうぞ。長いので時間があるときにお読みください。

Introduction

映画、「淵に立つ」を見た、先週の土曜日のことだ。これを最初見た時、「あぁこれが僕が見たかった映画だ」と感じたし、その思いはあくる日も変わらず、たまらず監督のトークショーがあるというので直接お礼を言いたくて翌日行った。パンフレットを買ってサインも貰った。実は僕は少しミーハーだ。

普段僕は別のブログで、映画の感想とは名ばかりで自分なりの解説、宣伝を書いている。「僕が面白いと感じたものをみんなに共有したい」という思いからだ。でもこの「淵に立つ」を同じブログで扱う気にはとてもなれない。この映画に感じたことを正直に書けば、自分と自分の家族との関係性を如実に表現することになる。それはともすればプライベートな事実を書くよりもプライバシーの侵害につながるかもしれない。

僕はこの映画を素晴らしい映画だと思う。だが僕はこの映画を宣伝したいとはとても思えない。トークショーで広告のためにはSNSなどによる口コミが大切だと言われたが、さすがに身を削ってまでこの映画を宣伝する義理はないと正直思う。

でも今朝聞いた深田監督の言葉を思い返してみると、自分の思いと重なるところがある。

僕は映画を鏡のようなものだと思っている。自分が今までどう生きてきたのかを映すような鏡だ。映画が何かを表現しているのは当然のこととして、その映画について自分が何を考えるたのかがその人の本質を端的に表すと考えている。その映画を見たあと自分が何を語るのか、それが知りたくて僕は映画を見ている。逆に言うと自分が何を考えているのかは実はわからない*1

深田監督は本作「淵に立つ」を「100人が見たら100通りの意見が分かれる映画」と表現した。この物語をどう捉えるかが、その人の生き方や考え方を反映するのだと。僕は僕と言う一人の人間でしかないのだから、この映画のついて僕にしか書けないことがあるはずだ。そしてそれをきっちりと書くこと、それが僕がやりたいことであり、僕が映画を観続ける理由ではないのかと思う。

読者不在のこのブログで、迷い込んだあなたに語りかけてみる。あなたにとって「家族」とはなんですか?そして、あなたの「罪」はなんですか?

*1:こうした逆説的なことは、20世紀の無意識の発見による寄与が大きい。本作のパンフレットの監督自身のインタビューでこの逆説について述べ、監督自身の「フィクション観」にも影響を及ぼしている。

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どこまでも、純粋に映画だった。「淵に立つ」

邦画

fuchi-movie.com

映画のひとつの側面としてエンタテインメント性がある。人を楽しませたり、笑わせたり、泣かせたり、クールだと思わせたりすること、それは映画に期待されるひとつの側面だ。そしてエンタテインメント性の担保のために装飾をする。それはときにファンタジー的世界観であったり、最後に謎が明かされるミステリィ的展開であったり、正義が悪を倒すカタルシスであったりする。「シン・ゴジラ」だったら、たとえそれまでの話を全くわからなくても最後のヤシオリ作戦は面白いと思えるように作られているし、「君の名は。」もハッピーエンドで終わる。スーパーマンは負けないし、スパイダーマンは世界を救う。

でもそうした装飾がなければ映画って作れないものなのか?

結論から申し上げよう、それは偽だ。反例はこの映画「淵に立つ」だ。

映画とは観客に映像を見せるということで、実は必ずしもエンタテインメントである必要はない。ここに映し出されているのは「日常」から切り取られた映像と、ほんの少しの「非日常」。そして底流に横たわっているのは、誰にも見えないけれど少しずつ、本当に少しずつ「日常」を蝕んだ「呪い」。

いつもだったら、もう少し僕は書きたいと思うだろう。それは例えば主演浅野忠信の演技、こだわりが見える「後ろ姿」、響く生活音、役者の顔が映えるかどうかは全く気にしていないカット、罪と罰、その事件で失ったもの得たもの、などなど。書けるし、普段なら僕は書く。

でもさ、この映画でそんなの全部野暮なんだよ。

全部、見ればいいから。僕がこの映画を面白いなんて声高に主張する必要はないし、感想を書きたいとも解説したいとも全く思わない。僕が言いたいことは、この映画はとても純粋で、だからこそとても映画になっていること。そして、僕が見たかった映画はこういうものだということ。

製作してくださった方、本当にありがとうございます。僕は大満足で劇場をあとにしました。

結果:

ま、そんなときもあるよね。